明日から24年度が始まります。いつの時代も課題が山積しています。というより、課題をつくっているのかわかりませんが。プラスのことは少ないのです。と、各政治家は言います。なぜあれだけの政治家がいてよくならないのか?選出している我々国民にも責任がありますね。住民力の向上がこのグローバル化し、情報多様化した社会では必要ですね。そんなことを訴えていきたいと思います。
「迎合と絆」
この一年、メディアをはじめ、政治でも家庭でも、地域でも商売でも「絆」というもの大きく謳っています。今回はそこに感じることを綴りたいと思います。
被災地に限らず私が全国廻った各地で「絆」を結び付けて様々な取組?を行っています。
また、この「絆」を国民のほとんどがこの一年で実感したという、メディアのデータもあります。
東北だけに限らず行政が、地域が、「絆サロン」や「絆ボランティアプロジェクト」やら、「絆相談員」やら「絆支援員」やら、「絆をとりもどそう商品(絆ラーメン等)」やら、あげればキリがないほどの「絆」のオンパレード。
この言葉を乱発する意味は何か?です。
本来ある意味が全く見えなくなっています。
同時にプラス面としてはこの言葉によって、少なからず地域社会とのつながりを見つめなす方向に変わってきていることは、見られると思います。
つい数年前までは「無縁社会、無縁地域、無縁家族」という言葉が多用され、各世代間でも絆がなくなってきたことを考えれば、「次世代への希望」「みんなで力をあわせて」「人は心」「思いやり」などが、旋回してきている社会になりつつあるのかもしれません。
しかし、これだけ乱用されると、まだまだ複雑化し未復興の被災地では、本来の意味がかき消され、現地の方たちが本来求めている課題ではなくなっているのではないかということです。
私も現地の方々との声を聞き、思ったことがあります。
結局は「絆」とは、被災地の方々のテーマでなく、被災地の方をダシに他の人たちが求めているテーマに過ぎないのではないか。ということです。現地は皆さん必死に生きていますし、震災前から地域コミュニティは他所よりはあったし、連携はきちんととれています。
また、この絆はメディアを中心に、独り歩きしている感が否めません。この言葉を我々国民が本当に「実感している」のであれば、様々な諸問題にも「反対せず協力できるはずです。」
絆、絆と騒いでいる人たちほど、東北のものは危険だから国がきちんと調査しろとか、その国の調査が信じられない。とか騒ぎます。それは、現地で生活している方々のことを考えていっているのかと憤慨したくなるような矛盾の出来事が頻繁に起きていることが物語っています。自分さえよければいいという現実と、「かわいそう」という言葉が「絆」の意味に変わってもいることにも、やはり見極めなければなりません。
我々一人一人が、あの震災以来、「絆」というメッセージにも似た「想い」を被災者に託してきたと思います。しかし、そこには現地の「現状の苦しみと既にある暖かさ」が抜け落ちていたのではないかと、私は思います。
それが乱発した場合、その言葉は、現地の方々には「ノイズ」でしかなく、それに気づかずに、他所にいる我々が壊しているのかもしれないという可能性があります。
復興利権に群がる現実と、所詮他人事のようにしている多くが、「絆」という言葉で、自らを「思いやっている」だけにすぎません。
「絆」という言葉がただただ消費している現実を、我々国民は被災地の方以上に考え、改めなければならないのかなと思います。
そんなことをこの一年感じています。
明日から4月。そう感じながら私は進みたいと思います。
若狭 清史