伝統、そして未来へ今こそ自立


若狹清史プロフィール

若狭清史

  • 経歴
    長野県生まれ
    長野日本大学高等学校卒業
    中央大学卒業
    米国議員事務所勤務
  • 現在
    (社)日本地域科学総合研究所 代表理事 兼 主席研究員
    辻・本郷グループ役員
    (辻・本郷ビジネスコンサルティング株式会社 専務取締役)
    (辻・本郷税理士法人 常勤顧問)
    NPO法人地域コミュニティ再生推進研究会 理事長
    株式会社信州スポーツスピリット マネージメントアドバイザー
    (信州ブレイブウォリアーズ)
  • 活動経歴
    経済産業省外局中小企業庁 専門家
    地域力活用市場獲得等支援事業(全国商工会連合会委嘱)
    中小企業・小規模事業者ワンストップ総合支援事業
    長野県中小企業振興センター 専門家
    長野県スポーツ推進審議会 委員
    長野県地域共生コミュニケーター
    長野県弁護士会通訳人
    長野県中野立志館高等学校評議員
    長野市社会福祉審議会 委員
    地域福祉 福祉医療費給付金 担当
    長野市教育委員会
    放課後子どもプランアドバイザー
    長野アイスホッケークラブ後援会 会長
    中央大学 長野支部幹事
    日本レッドコード研究会 顧問
    夜回り隊隊長 (順不同)

幼少期

政治とは無縁の兼業農家の次男坊として生まれる。
3歳前後に祖父母が他界したため、若い両親、2歳上の兄と一緒に、幼少期から高校卒業まで農業に取り組む。父親は朝晩と週末がメーン、母親が平日の日中がメーンで農業を行い、本人も朝一番でぶどうを収穫し市場へ出荷する手伝いをこなす。夜は翌日出荷用の箱用意を行うなど農業中心の毎日を過ごす。保育園には年中途中から通い(通い始めた頃は急な生活の変化に戸惑い、保育園バスから室内に入るまでが大変だったようだ)、毎日泥んこになりながら遊んでもいたようだ。



母親に内緒で一人、ご近所回り中


小学生時代

小学校時代は、生徒会長を務める。
勇気を振り絞って立候補をしたことを今でも覚えているという。
先生に頼まれて不登校の仲間を学校とは逆の家まで迎えに行く日課だった。
とにかく運動が大好きで休み時間では、校庭か体育館で体を動かしていた。
放課後は真っ暗になるまで、グラウンドで野球に明け暮れ、帰宅後は農業の手伝いを行った。週末は一日中畑仕事をしないといけないため、地域の仲間が野球クラブ等に入って練習しているのをうらやましく思いつつも、持ち前の明るさで毎日を楽しくも充実していた。
プロ野球ニュースやプロレスを見るのも日課で夜更かしばかりしていた小学生だった。
毎週月曜日にあるスイミングクラブには6年間楽しみに通ったおかげで、水泳大会では新記録を何度か出せた。



清史(左)と2歳上の兄


中学生時代

中学校時代はルーム長を一年生の時から務め、校風委員長も任された。
部活は水泳部に入り部長を務める。
バタフライを専門とし一年生時から大会に出場。
その際にフライングをしてしまい、以後、三年まで新人戦、北信大会、県大会、北信越大会等出場する大会の必ずどこかでフライングをし、周囲からは「フライング王」と呼ばれていた。
兄も水泳部であったため兄世代の先輩方には可愛がってもらい、今でも親しくしてもらっている。水泳部自体が和気あいあいで仲が良く、「東水会」と名付け、今でも定期的な集いを開催している。(篠ノ井東中学校水泳部の略=東水会)
英語と体育が得意。曲がったことが大嫌いで、先輩後輩関係なく間違ったことに対してはとことん向き合った記憶があるようだ。
原辰徳選手と三浦知良選手が大好きで、夢中になっていた。



登山途中、めったにやらないVサイン


高校生時代

イケイケの小中学校から一転して、真面目な高校生活に。
同じ小•中学校からの知り合いは2名しかいない学校で、新しい環境への対応もできず、一年生の春に胃潰瘍で入院。「高校生で胃潰瘍になるとは…」、と今では良い思い出と語っている。
陸上部に所属し、円盤投げを中心とした投擲班に所属。北信越大会まで行ったが招集場所で鼻血を出すトラブルも。
二年生の時にはルーム長を務める。
高校時代の様々な経験が、今、目指す世界の初心の礎になっている。本人は「学校に行けない時、行っても自我を出せずにいたとき、大人社会の裏表を見たとき。それらの全てが今の自分にとっていい経験となった。」という。

大学生時代

郷土を離れ、東京の中央大学への進学を決める。
自宅から大学までの片道8キロをランニングして登校。趣味の大型バイクに乗って登校もしていた。

政治の世界に飛び込もうとしたが、どうしていいかわからず、連日、国会議事堂に通い続けるが、守衛さんに中には入れてもらえず談笑を繰り返す日々。
ある日、そんな若狭を見かねて偶然通りかかった代議士と出会い、話を聞いてもらう機会を持つ事ができた。
それを機に一気に政治の世界に踏み出す。
国会議員や都議会議員の選挙を手伝い、色々な側面を学ぶ。
とにかく色々な社会を経験することが必要だと感じ、体験したアルバイトの数は数知れず。
全国模試採点員のバイトで出会った先輩方とは今でもつきあいがある。

乗り物にハマり、GSF1200S、隼1300Rと乗り継ぐ。愛車隼1300Rは現在も保持しているが、ここ3年は観賞用になっている。
車はJAFのカーライセンスを取得し、大会に出場。その後、国際ライセンスまで取得。
国内Aランクの時に、母親の車でジムカーナの大会に出場し、遠心力により車が歪み、怒られる。

『20歳の集い』という集会に中央大学の代表として弁論出場。
「政治を語る前に」という題で、弁論講演。その時の他大学の学生の弁論への反論等の論戦の凄さに、「覚悟」を覚えたという。「自らの意志と覚悟が社会、国を変える」ことに、責任とワクワク感があったという。

大学卒業式には、米国へいく準備などで出席できず。
未だに大学の卒業式がどういうものなのか、知らずにいる。
大和魂という本来日本人が持つべき気持ちを持とうと仲間と「大和魂」という集いを結成したのもこの頃である。



最近では専ら“観賞用”の愛車の隼1300R


極真空手師範と一緒に


海外時代

若いうちしか、海外は見れない。と思い、渡米を決意。
しかし、どうしたらいいのかわからず、FAXやEメールを米国議員関係者に送り続けたが、相手にされなかった。
しかし、続けることで、「見てみたい。よければ是非」という声をもらう。

保証人をつけなさい。という指示を受け、あらゆる議員事務所を回ったが、誰も相手にしてくれなかった。 しかし、当時長野市議会議長であった町田伍一郎先生をアポイントもなしに訪ねた際に「若い世代の政治家を育てるのも我々ベテラン政治家の役割だ。当然保証人になる。思い切り張り切ってこい」という言葉をもらう。
この義理人情の大切さだけは、今持って学ぶところであり忘れてはならない出来事だ。

ビザを取得するために米国大使館に行った際、政治家の事務所に勤務するためか、自分のキャリア不足からか、特別に面接や審査に時間がかかった記憶があるようだ。

渡米するときは仲間10人位で成田空港まで送ってもらい、意気揚々と出発したが、ユナイテッド航空でいきなり言葉の壁につまづき、これから始まる海外生活が不安になっていた。

米国ではカリフォルニア州ロサンゼルスに住んでいた。
勤務議員の担当地区範囲でもあったが、住まいが「サウスセントラル」地区だった。
連日、「パン、パン」という銃声音が響き、ヘリコプターが犯人を追うという、米国でも屈指の治安の悪いエリアに住むことに。
当初仕事では毎日が言葉やしきたり、制度、法律等を学ぶことだらけで、ついていくのに必死だった。

戦時中、捕虜になった在米日系人やそのご家族の方との友好推進を担当した折に、過去の歴史から現在の苦難をお一人おひとりから聞いた時に、「自分たちは大きな視点から物事をみなくてはならない」と強く思った。
若狭も経験した「人種差別」等とは比にもならない苦労を経験されたことを聞き、「外国人」政策への関心も強く持たされた。

事務所によく訪れていただいたMr.Shirasagoこと白砂氏。この方は日本語はほとんど喋れないが、名刺には「日の丸と白砂家の家紋」が印刷されているのをみて、「本当の愛国であり、母国への希望」を感じた。

近くに「コリアンタウン」があり、そこの本場の冷麺にはまり毎日昼飯は「ユチョン」というお店に通っていた。

危険なエリアで何度か襲われたことがあった。
「ドーモー」
と声をかけられ
「どうも。」
と返したら

「Don’t move.」
という意味で、持っているものは持って行かれたのが最初のピンチ。

他にも職務中に襲撃に遭い、大怪我をおい、手術を受けるため一時帰国をすることに。治安の悪いエリアだけに、政治に対しての思い、国家に対する「期待」を目の当たりにした出来事でもあった。

国家を運営していくためには、地域の自立、そして国家の外交の大切さをしみじみと感じる。

米国で第二の家族として接していただいた「辻・本郷税理士法人」の本郷孔洋先生や、奥様の洋子様には本当に感謝をしているようだ。未だにお付き合いがあり、政策面でも指導いただいている。



期待と不安を胸にアメリカへ


式典会場 in L.A.



現在

帰国当時は、一日の流れが長く感じ、米国では自分が必死に生活していたのを痛感した。

「夜回り活動」。夜な夜な繁華街や裏通り等を回り、屯しているワカモノや、危険な道にいこうとしているワカモノと真剣に向き合う活動を開始。
最初はなかなか心を開いてもらえなかったが、徐々に真剣に向き合えるようになり問題解決にもつながったケースもあった。

NPO法人を立ち上げ、地域コミュニティの再生をテーマに、若者立ちや学生たちと、農作業や、ゴミ拾い、草取り、夜回り、学校訪問、イベント開催等を始めた。

帰国後、お世話になった識者の方たちとの会談の時に、「これからは地方の地域をきちんと分析して厳しくも温かい政策を実行していくべき」との話の中で、シンクタンク設立を決意。公的シンクタンク(社)として、大学教授や博士等有識者と共に、理事、主席研究員として出発。

財務コンサルや調査分析はもちろん、学校講師やセミナー講師、論文発表にも力をいれる。
審議会委員等も努め、行政への諮問も行っている。

内閣府や経産省の助成事業も担当し、各地のまちづくりのサポートを行ってきている。
中小企業の皆さんに元気になってもらいたいとの思いで、現在は長野ー東京―神奈川ー宮城等でも企業訪問を行い、アドバイスを行ったり、補助金申請補助を行う等の専門家活動にも力をいれている。



「放課後子どもプラン アドバイザー中」


「公共交通政策についての基調講演」