8月19日

「管理」

昨今、各地を回り、色々な方々との交流を大切にしながら、今後の施策をどうしていくべきかなど、大きな問題を考えながら過ごす日々が多いのですが、時折、「今の日本は平和すぎてないか?」と危惧する事があるのです。そんな事を今回はつづりたいと思います。

先日、天竜川で事故が起きました。国民の目や報道の視点は、「管理責任」の問題一点になっています。カナダーアメリカ間にあるナイヤガラの滝つぼに転落した日本人女性もいました。現地で、こちらは、管理責任の問題には全くなっていません。

なぜなのでしょうか?

過保護環境の中で育ちすぎた日本人とまではいいませんが、我々日本人が考える、「善後策」とは必ずといって、「自分の命が大事」という概念です。
だからその命の為なら、自分以外の誰かのせいにしてまでも、解決したいという思いでしょうか。

今の原発問題にしても、セシウム問題にしても、放射能食材、果物問題にしても、とにかく一つ何か問題が起きれば、命が大事で今までの全て安心して、食したり関わっていたものが「悪」に変わってしまうのです。
これは、「平和すぎる」ことを意味しているようにすら思います。

我々日本人は、必ず「誰か」が守ってくれると考えます。だからこそ、少しの無謀も出来るとし、行動をおこします。しかし、それで問題があれば、「管理責任」が問われます。

米国時代に「サウスセントラル」というエリアで過ごした期間がありましたが、そこはまさに生きるか死ぬかの世界です。「誰か」が守ってくれるなんてことはありません。だからといって、「誰か」のせいにもしません。
私も何度か襲われたり、囲まれた事もありましたが、行きぬく力が足りないと自らを責めました。

しかし、今の日本は社会生活するうえで、必ず「防衛・災害=自衛隊、火事=消防隊、めまいや一気飲み、一応大事をとっての=救急車、警察にいたっては何でも相談屋の始末。社会生活するうえでは、全て社会保障は=行政」
これらは一部で大げさかも知れません。
しかし、現実に多いのです。
このままいけば、市民力の低下はもとより、民度が下がってしまいます。

今回の放射能食材や子どもに及ぼす影響に関して、やたらめった心配している方々が多いのもその一つでしょう。
私なんか、狂牛病問題時代から、セシウム牛肉問題に至るまで、報道された時はもう遅いですし、本当に食べて影響があるのかどうかを自ら調べ、堂々と食べ続けています。なぜならば、日本の基準は世界有数の高水準すぎるので、アフリカ諸国や発展途上国だけにかぎらず、先進国でも問題ない数値のものが多いからです。

ですから、子どもを心配する女性や自らの身体を心配する方々が控えるのは自由ですが、私は、世界基準の数値以内なら問題ないと思いますので、食べています。

また、原発問題をとっても原発など一基もない都道府県で、脱原発を唱えながらも、「電気は欲しい。原発を減らしながら再生エネルギー創出でも、従来どおり以上の供給を望む。人命に関わるから。」といわれても、説得力がありません。

これらのことが多いのが今の日本の現状なのかなと思います。

これからは、こういった感覚がより蔓延してくると、日本は本当に自立できるのかと不安でしかたありません。

また、こういったことを書くと、すぐに「思想が右か左」かを判断したがりますが、どの陣営の方々に「あなたは右(左)ですか?」と聞いても、ほとんどが「我々が中道だ」と応えます。

私は、今の日本人が、我欲メインの生活環境になってきていることがこの先の不安材料です。
無駄を無くすのは当たり前のことですが、社会保障をもっと充実させろと要望しながらも、増税や国民負担になることは反対と、言っていてもどうにもこうにも、進みません。むしろ、そういった社会保障の裏に隠れて、無駄が生まれているケースもあるかもしれません。

「政治家が利権ばかりで信用できない。」といいながらも「利権をお願いします。」頼んでいる現状であったり、「核の悲劇はもう繰り返してはならない」といっていたはずが、「原発爆発」。こういったことが繰り返される裏には、過保護すぎる日本人が誕生し、継承されてしまってきているのからなのかもしれません。

価値観は十人十色ですから、何もいえませんが、この国の今後を考えた時に、何でも感でも「誰か」に「頼り、責任転嫁、任せる」ような、人間ごっこではなく、自立するために、自らの保守改革が求められると感じています。

それが、市民力向上の一助であり、議員力の向上にもつながり、東アジア間での民度の差をつける、近道のように思うのです。

そんなことを感じた、今回でした。

                          若狹 清史