長野市議選が先週終り、10月新長野市議の誕生です。役人と政策論議を進め、大きな発展の役割を担っていただきたいと願います。議員力の向上は市民力の向上であり、その逆もいえます。我々も日々興味をもちながらすすんでいきたいですね。
「公正」
我が国は、法治国家であり三権分立が整い繁栄を望み運営されています。今回は、その中の司法について政治的背景の中での正当性や平等性が保たれているのかなどで感じたことを綴りたいと思います。
様々な犯罪が横行している昨今でありますが、その中でも政治的背景が強い犯罪と言われるものが、「人」によってどのように判断されているのかを、現在の仕組みからくみ取ると、疑問が生じます。
政治的背景の強い案件で、裁判所が示す判決については、メディアを筆頭にあれこれ論評されます。しかし、警察や検察の捜査の正当性が問われることは少なく、裁判所の証拠案件の検証をすることもあまりなく、被告側が推定的な状況に基づいてバッシングをあう政治的背景が強い事案について、私は、我々国民一人ひとりが、裁判所の判断とは別に判断しなければならないと思います。
政治家は政治的道義として説明責任を問われますが、その説明に関しても基準となるのは、司法の情報になりますので、その軸との整合性を問われ結局バッシングにあうことは間違いありません。
そもそも、裁判所が適正な判断を示す場合、問題はありませんが、その適正な判断ができるかどうかは、担当裁判官の属性次第になります。
専門家の方々も問題視していますが、憲法76条には「すべての裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」
との条文があります。しかし、この憲法の問題点はこの条文が実現するための制度が確立されていないということです。
今の日本の司法制度の見えない点として、この裁判官の後ろ盾の存在です。裁判官の任用や再任、立場の昇進、処遇など全てを「最高裁事務総局」という部門が握っているのです。ですから、76条の精神を遂行しようとしても、何らかの指示があるならば、通常の裁判官はこの総局に逆らう事は出来ないし、また、逆らいそうな裁判官ではなく、従順な裁判官の重要案件への多用も簡単に出来ると言ってもいいと思います。もちろん、政治的案件で何らかの指示などないと信じたいですが。
この最高裁事務総局というあまり聞きなれない機関は、裁判官の独立性の確保に務めています。三権分立を遂行できるよう立法府や行政府からの不当圧力を遮断し、個々の裁判官の良心によって職務が遂行できるように立ちはだかっている機関です。
しかし、現実的な問題点として、この最高裁事務総局が法務官僚と一体化していることです。また私の知り合いの現役弁護士いわく、最高裁事務総局が過去の判例を誘導するための研修会を開いていることで、事実がゆがむ可能性があると指摘されていました。
これは、何を意味するかですが、最高裁事務総局は時の権力者、政党の側の動向を常に意識する傾向にあるとみれるのではないでしょうか。
ですから、政治的背景が関わる問題は、裁判所の判断としても、政治的影響がどうしても反映されてしまうと思います。
過去の判例をみても、一審二審で有罪であっても最高裁で覆る政治的影響力がある案件がいくつも見て取れます。(砂川事件、長銀粉飾決算、八幡製鐵事件・・・)
時の権力者、政党、その関係経済団体などに、毅然と立ち向かおうとするもしくは、新たな権力を確立しようとすると、あらゆる手を使って、廃除されるような傾向にあるのも事実だと思います。
私は、重要なことは、政治的な影響が大きいような事案に関しては、詳細を国民にもわかるような仕組みをつくり、裁判所の判断とは別に国民自身が個別に判断することがあってもいいのかもしれないと、最近感じています。
政治の顔色を見て行動する司法ではいけませんし、裁判をコントロールさせるために、政治的影響力のある事案にかんしては、最高裁事務総局の指導に従う裁判官を担当するようなことがあってもいけません。
上記のことがまかり通るならば、司法の意味がなくなるからです。
司法は公正な判断が求められるのであって、政治的判断を下してはいけないと思います。
疑わしきは罰しない。刑事裁判であれば当たり前のことですら、それがゆがむケースもみてとれます。
政治的な問題点に関して司法が政治的判断をくだすことが、起こっているように最近感じてしまいます。
我々国民も、その部分を理解しながら、今一度裁判に対して、学ばなければならないのかもしれないと思います。
主権者である我々国民が正しく過ごせる社会構築の為にも、情報社会下ではあらゆる憲法を含めた仕組みを、国民に寄って自主的に見つめなおさなければならないと思います。
そんなことを昨今の司法をみていて感じました。
若狹 清史