先日花火屋さんに行きました。久しぶりに入り昔を思い出しました。種類も昔からあるものも多く、一気に時代が回顧でき心が癒されました。
「異論」
先日、ニートと言われる人たちの集まりに顔を出させていただきました。
親御さんも出席していましたが、親御さんはニートだとは思っていませんでした。精神が病んでいるだけ、今の社会がいけないだけという認識の方が多かったです。
そもそも、NEETは“Not in Employment, Education or Training”と言われています。
このニートと呼ばれる若者が、集まりにきて、何をしているのかというと、ほとんど会話もなく、本を読んでいる人、夢を語る人、音楽を聴いたり、弾いたりしています。
正直、甘えている集団にもみえます。
と、考えるのは我々の正論であり、少子化の昨今、若い労働力が何もしないでフラフラ過ごしているのは、もったいないと考えることには、抵抗もあるようです。
なぜ、武士道がなくなってきたのか・・・。「日本」は島国であり天然資源に恵まれず、互いに助け合っていく以外、生活するすべはありませんでした。その後、明治時代あたりから、工業化社会という、従来の考えとは異なった新しい概念が日本に入って来ました。
それ以来、近代工業化社会の過渡期を経て、1970年代後半から80年代にかけて、工業化社会はいわゆる成熟期に入っていきました。
モノの豊かさを喜びや幸せと感じた時代が終わり、何が幸せなのかを判断するのは、人それぞれになっていきました。この頃「日本国民総中流意識」という言葉に、日本は覆われていきました。
ところが現代社会になるにつれ、工業化社会も閉幕を迎えつつあり、情報化社会とかIT社会と言われるようになりました。同時に価値観なども変化をしました。もちろん、教育者の質も同様です。
「良い学校に入って、良い会社に行って、良い余生を・・・」というように、人生を目標通りに歩いてきたほとんどの大人たちは、現在のIT、IC、などの社会には対応しきれず、会社においては、不況が続いてリストラされる現状に、今の若者は「そうはならないから、まだタイミングを待っている」などという心理状態に置かれたのかもしれません。
ただ、私は、ニートの方々には厳しい言葉になってしまったと思いますが、「社会が参加させるしくみや動機付けをしてほしい」という考えを持っていることが、非常に情けなく思います。彼らや親も甘えて、社会のせいにしています。それも一理あるでしょうが、全てではありません。
彼らは「どんな社会」への参加を望んでいるのか、見えてない以上、そんな施策は意味をなしません。ニートの他にフリーターという言葉もよく聞きますが、色々な統計を見ても、彼らの根拠ははっきりしません。
しかし、ニートやフリーターの中でも、追い込まれてならざるを得ない者と、あえて定職を持たないと選択した者とがあるように思います。だから施策も難しいのもわかります。しかし、甘えている彼らは、今後の社会生活における対応はできないと思います。
時代が急激に変化していった時には、いつの場合でも、社会の中で身の置き場に迷う人が多く出たと思います。しかし、無気力になり、謙虚さをなくしたとき、国家は衰退傾向にあります。
否定ばかりしても進みませんので、やはり、ニートが増え続ければ平和の象徴としていいのかもしれませんが、前向きに彼らに与えられることは、豊かな時代だからこそ大いに「自己実現」の達成のために、やりたいことを頑張るひとはやればいい。という解釈でいくしかないのかもしれません。
餓死する程の貧しさが存在する国ではありません。自らが亡くなるときに、最高の人生だったといえる生き方をすればいいのです。
そうまとめてニートの集いでは終えましたが、最高の人生だったと言える人生になるように、私は必死に動いて謙虚に気力を出して、生きようと思います。
若狭 清史